熟成古酒の歴史

古文書に登場する熟成古酒

坂口謹一郎氏の「日本の酒」によると、鎌倉時代、日蓮上人が信徒に送った手紙の中に『人の血を絞れる如くなる古酒を仏、法華径にまいらせ給える女人の成仏得道疑うべしや』等の記述があり、その当時から熟成古酒が貴重な品として扱われていたことがわかっています。坂口氏によると、他にも、公家や寺院の日記の中に『古酒』の記述を見ることができるとのことです。

寿の酒:九年酒

様々な九年酒

様々な九年酒

江戸時代のチラシとも言える「江戸買物独案内」によると、文政年間では、清酒の上物は「九年酒」であり、値段は一升銀10匁とあります。当時の安いお酒と比べて2.2倍です(この頃の安い酒は一升300文。1文=0.015匁)。また、「大江戸番付事情」によると、江戸の酒番付では中央上段(特別扱いの枠)に「九年酒 大和屋又」とありました。ここでは「9年間寝かせた清酒で、上等な新酒の3倍くらいの値段」と解説されています。最高級の清酒として位置付けられ、取引されていたことが伺えます。

九年酒とは文字通り9年熟成させたお酒だったと考えられています。「9」という数字の意味は「沢山」、つまり、最大の奇数で一番おめでたい数とされていました。長期熟成酒研究会では「九年酒」復興のため、毎年秋の「楽しむ会」で展示、試飲を行っています。

現在も「九年酒」は皇室の婚礼の儀に用いられています。天皇・皇后に結婚を報告する「朝見の儀」で『親子固めの盃』または『別れの盃』が交わされます。ただし、現在の皇室で使用されている「九年酒」は「黒豆を酒と味醂で煮た煮汁を、半分程度に煮詰めたもの」と新聞報道されています。これは熟成古酒の独特の色味を再現するために、現在の黒豆の煮汁の形になったものと推測されます。

本来の九年酒が使われなくなった理由としては、明治維新に入り、政府内で日本酒有害論が出されたため、宮廷内での酒の製造免許が取り上げられたと考えられます。これは、皇族の健康維持・管理において外国からの知識が入り、「洋酒擁護論」が展開されたためと考えられおり、「日本酒は身体によくない」との口実で排除されてしまいました。こうしたことから現在では豆を煮たものを変わりに九年酒として使用していると思われます。

熟成古酒が日本から消えたわけ

明治初期まで、一般に楽しまれていた熟成古酒が消えてしまった理由については諸説ありますが、その大きな理由の一つとして「造石税」を無視することはできません。税収難に苦しんでいた明治政府は、主要な財源としての酒税に目をつけ、重税を課していきました。その一つが「造石税」で、これは日本酒をしぼった瞬間に課税対象になるという、非常に過酷な税制でした。日本酒を酒蔵で熟成させる場合、まず「造石税」を納税してから熟成させることとなり、多くの酒蔵が熟成古酒を貯蔵することを止めてしまったと言われています。

「造石税」は戦後廃止されましたが、一度失われた熟成古酒の文化がよみがえるには、多くの時間が必要なようです。